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一つ一つ”間”を埋めていけば全ては繋がるものとして。
前にちょこっと書いたけど、

「多分その昔、全てが繋がっていた頃は”デザイン”なんて言葉はいらなかったんだと思う。

人間の精神と肉体と感情がバラバラになってきたから、

人間界にだけ”デザイン”という作業が必要になったんだ」

な~んて勝手にデザインについて語ってみたりもしてみました。

デザインに関わる仕事をしていて、よく、

「デザインってなんやねん?」
という話になる。
デザインとアートの違いとかも。

職業柄なんとなくは頭にあるけど、定義はみんないろいろ。
デザインは商業の為ってのもなんだか寂しいし。

僕の中で思うのは人が生まれてきた意味が自分を表現することとするなら

芸術家やアーティストと呼ばれる人達はそのまま表現できてる。

でもその人の魅力を感覚で解る人にはそのままでいいけど、
みんながみんなすぐ理解できる訳じゃない。

だから社会との間に入る何かが必要なんだ。

それを言葉で表すと
デザイナー、プロデューサー、キュレーター、オーガナイザー・・・
って事になるのかと。
どちらにしても表現者。


光がないと影はない。でもその二つだけでもない。
その間に入るものがあるから人は影という存在を通じて光の美しさを知る。
その影をどう魅力的に創りだすかがその間に入る人達の仕事じゃないのかな。

人間社会と人間の本能との矛盾を埋める存在が
デザイナーとかプロデューサーとかキュレーターとかいろんな言葉にかえられるんじゃないかな。

だからデザイナーは自分が作り出した「影」を見て欲しいんじゃない。
その向こうの「光」を見て欲しいんだ。


向き不向きとか持って生まれたものはあるかも知れないけど、
自分が「光」か「影を作る人」かどうかは
その場、その環境で考えればいいんだと思う。

時々ちょっと俯瞰してみて誰がその役割に一番当てはまるかを考える。

それで思うのが、

対立する何かとか、並行する何か、向かい合う、隣合う…。
全てのものに「間」がある。
原子や素粒子の間にも。

建築でもみんなが集まる場所は「居間」とか「茶の間」とか言うし。

交差点とか、中継点、通訳、ハブ化。
いろいろ言い方はあるけど。

「間」を意識したら全てが繋がるんじゃないかとすら思う。

やりたい事と、やらなきゃいけない事の間にも何かがある。

本能に従う事と、社会で生きる事の間にも。

間を見つめれば何かの答えがあるような気がする。



「光」として進み、表現し続けるか、

その光を体中に受けて社会に「投影」することで表現するか。

僕はどっちかって言ったら「間」に入りたいのかな。

光りたいんじゃなく。


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by kendaikoubou | 2011-01-17 23:47
社会で生きるということは本能と矛盾して生きるという事
その昔、人の世は「本能のまま生きてはいけない」と誰かが決めて
社会の中で「秩序」とか「倫理観」とかいうものを作りあげた。
だからそもそも社会で生きるという事は本能との矛盾でしかない。
政治や宗教なんかで人を統率しようとしたり。
「この社会ではこう生きるべき」と誰かが決める。
本当は誰もが生まれ持ったそれぞれの「生き方」ってのがあるのに。
だからみんな悩むんだ。

「英雄色を好む」じゃないけど、
僕が知ってる著名な表現者の中で過去、よくよく見たら色恋沙汰やスキャンダルは多い。
多分それも本能のまま生きるとこうなるって事。
全身全霊で表現するなら私生活で常識人を装ってる余裕なんか無かったんだと思う。
そんなアーティストも死んでしまえば後は作品だけがもてはやされ、
彼等の私生活に翻弄された人達のことなど遥か忘却の彼方。

結果そういう先人達が文化人と呼ばれるようになる。

今は個人がメディアを持つ時代で、俗に言う社会的な秩序を乱す「悪事」が
暴かれ易いんでしょうね。
政治や芸能とか、個性の潰し合いみたい。
もちろんそんな中でも秀でた文化人はまだまだ輩出されるのでしょうけど。

ただ、それを一般社会に当てはめると少々厄介だと思う。
「生き方」を見失いかけない。
特に今の大学生なんかと話していると、
何をしたいか?今をどう生きるか?
ではなく今の社会を考えた上で今をどう生きる「べき」か、
を考えてる人が多いように見える。
もちろんそれを勉強しに行ってるんやからそれも大切。

今の社会には合ってないからって、
でも自分の本能を無視はできない。

本能と社会との矛盾。

もっと引いた目で世界を見ることが大切なんやと思う。
今自分が生きる、知りうる社会なんて所詮、ちっぽけなもので、
そこで生きる事を考えても本当に自分の生きる道なんて見つけるのは難しい。
ましてや文化なんて作れる訳もない。

それくらいなら自分の本能に従うとどうなるか?
をまず考えてからそれと今の社会を照らし合わせる事を考える方が楽しい。

それが分からないって人がいるけど、それは社会に覆い隠されてるから。

「総理大臣になりたい」、「アイドルになりたい」とか
「あの国に住みたい、あの車が欲しい」、
「今あの子とエッチなことしたい」とか。

子供の頃はそんなこといくらでもあったはず。
夢も希望もみんな持ってたはず。

それでは儲からないからとか、
それを口に出すと社会から非難されると教わってきたから。
思わないようにしてきただけ。


物事には向き不向きというのがある。
経験をしてみないとそれは分からない。
ましてや、それが向いてるかどうかってのもなかなか分からない。

人はみんな「一生懸命生きてます」と言う。
でもその道で生きてる人とそうでない人とでは「一生懸命」の結果は違う。
でもその場その場では誰もがみんな一生懸命なんだ。
後は指導者側、捉える方の問題。

どうせ頑張るなら自分の才能が発揮できる場所で「一生懸命」働きたい。
本能のまま生きれる場所。自分が一番輝ける場所。

もし本能のまま生きることができるなら、
誰しもにその「場所」はあるはず。

それが生まれてきた意味だから。


人間が作り上げた秩序に縛られた社会で、本能を抑えながら生きるか、

表現者として本能剥き出しで社会に叩かれながら、何かを残して死んで行くか、

それとも矛盾を受け入れた上で、自分の生きたい社会を見つけ、どこまで表現できるかを常に考え続けながら生きるか…。

いろんな人がいればいい。

自分が生きてる社会や時間だけで考えても答えは出ないかも。

もっと遠くから俯瞰してちっぽけな世界、自分を見ないと。

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by kendaikoubou | 2011-01-03 20:34